天才作り  『すべてがFになる/著・森博嗣』

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

『人を天才する機械』
こんなものがあったら皆さんはどうしますか?
いきなりこんなこと聞かれたら頭上に疑問符を並べた上で、「こいつ何言ってんの?」と思うでしょう。私も思います。しかし、もしも、本当に、万が一にでも、そんな機械があれば、私は一番嫌いな人を天才にして欲しいと願います。
私自身は天才という称号から限りなく縁が遠い凡才なので、世に言う天才と呼ばれる人の気持ちなど知りようもないのですが、想像するに、いや想像を絶するに、膨大な苦労と苦悩を伴うのでしょうね。天才と呼ばれるほどに結果を残した上でそれを継続、向上させるために途方もない努力を積み重ねる堂々巡りの日々。でもひとたび結果が出ないと、凡才には理解し得ない崩壊が待っている、みたいな感じですかね。高すぎる位置にいればそれだけ落ちたときの衝撃がでかいですからね。天才作りは天災作り、みたいな。
分野云々は置いておいて、そんな状況下に自分の一番嫌いな人がいたらどうでしょう。さぞかしその人の苦労を目にすることができるでしょうね。あるいはその苦労を見せないように振る舞うでしょうか。私はそれを見てどう思うか……。
その人が『天才』を維持できなくて落ちぶれてしまえば、「ざまあみろ、やーいやーい、バーカ」と言ってすっきりできるでしょうし(なんか、すいません)、維持できているのならば「あんなやつでもやってるんだ、俺も頑張ろう」とモチベーションが上がりそうです。ただ、自分が天才に仕立てた上で、その人が零落して落ち込んでいたら、いくら嫌いな人でも呵責に苛まれそうですね……。

似たような話になりますが、天才も凡才も『他人が作るもの』だと私は考えています。天才はあくまで周囲の評価が高いということでして、すごい記録でも評価されなければ天才でもなんでもないわけです。それに、天才が分野に触れることがなかったら……と、たらればを言うのもどうかとも思いますが、例えば音楽を奏でないモーツァルト、絵を描かないピカソ、学問を究めないアインシュタイン、野球をしないイチローなどなど。もちろん、その分野以外でも天才と呼ばれる可能性はあっただろうとは思いますが、ある人物が自身の能力を極めようと思える分野に出会うということが『天才』が生まれる最初の条件だと思います。しかし、その出会いを作るのは親などの身近な周囲の環境であり、しかも、出会った後でも極めようと思えるような環境でない限り天才とは呼ばれません。努力でどうにでもなると思う人がいるのかもしれませんが、でもその『努力することができる』という能力は残念ながら周囲の環境に大きく左右されますし、その人格を作り上げるのも、残念ながら他人なのです。しかも、努力した分野の評価を下すのも他人です。どんなに努力しても、人から評価されなければただの凡才なのですから。
そういう意味では『天才を作る機械』って私たち人間そのものですよね。


さて、本題です。
今回ご紹介する『すべてがFになる』は非常に非情なミステリーです。大まかに言うと天才の天才による天才のための研究所で起こる殺人事件を描いたお話です。ミステリーなのでストーリーを紹介するのは控えますが、私は著者の森博嗣さんの著書に出てくる独特な考え方が大好きなので、今回は『すべてがFになる』の中から少しご紹介します。
・『起き上がりこぼしは生命?』(コンピュータウイルスが生きているか否かという件で)
・「人間が作った道具の中で、コンピュータが最も人間的だし、自然に近い」
・『現実』とは「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」
こんな話がところどころに出てきます。読んでいて「へぇ〜」と思ったり、いろいろ考えたりですごく楽しんでいます。もちろんミステリーとしてもお話としてもすごく面白いのでオススメです。

そんなわけで、今回も長々長々と失礼いたしました。
(とある畜大生)